アタシの国ニッポンでは、『宗教』という言葉のイメージは決して良くない。
むしろ悪い! すんごく悪い! なんでかな?
『宗教』と聞いた途端に覚える『嫌悪感』と『拒絶』の反応…
こんなイメージは、いったいどうして芽生えたんだろう?
~宗教組織とメディアの功罪~ 今日の戯言…ちょっと長いぞ~!
我輩はクリスチャンである。
だが、アタシも『宗教』という言葉には、意味も無く『嫌悪感』を抱いてきた。
「宗教って何?!」という素朴な疑問に明確に応える術(すべ)をアタシは知らない。
また、多くの日本人が同様の反応を示す事をアタシ自身、クリスチャンになるよりずっと前から実感している。
『宗教』という言葉を耳にしただけで、無条件に『偽善、まやかし、金儲け!』といったキーワードがオツムに浮かんできて、「アタシは嫌~~い!」「へ~~、アンタそんなもんに関わってんの?」といった会話が流れたりする。
また、多くのフリーウェブ素材の提供サイトでその使用が無条件に拒絶されているのは公序良俗に反するアダルトサイトと宗教関連と記載されてるものが多いよね。
知らぬ間にYESかNOかの二者択一の選択肢しかない根強い『宗教』に対する『嫌悪感』や『警戒感』が、日本ではアダルトサイトと同列なのには、なんだか無性に哀しさを覚えます。
イメージだけですべてを見透かしたように、警戒し、侮蔑し、排斥し、断言したりする『ものの見方』や『感覚』を多くの日本人が身につけているのは何故なんだろう?
そしてそれはいったいどこから芽生えてきたんだろう?
アタシはそれがとても知りたくて、ずっと考えてきました。
アタシなりのイメージですが、『宗教』と『信仰』というのではまた受け取り方がちょっと違うと思っています。
『信仰』には、個人の信念や気持ちの問題として『個人』に重点が置かれているのに対し、
『宗教』には、個人の信念や信仰と結びついた『団体、組織あるいは社会』などの存在が容易にイメージされるのです。
そう考えてみると、身近な『祈り、希望、願望』といった個人的な内なる『信仰』には寛容でも、『組織や団体あるいは社会』が『宗教』というカテゴリーを隠れ蓑にして権力を隠匿し、政治や金や様々な欲望に絡んで問題を起こせば、『宗教』という言葉のイメージが汚れて見えてくるのも頷けます。
世界中で起こる『宗教組織』がらみの紛争やテロ事件等が深刻度を増して度重なれば、ましてや日本国内での身近な凶悪事件や破廉恥事件ならば尚更の事、人々が『宗教』に対してあからさまな『嫌悪感』を覚えるのはむしろ正常な感覚と思えます。
アタシ等、日本人は生まれたときから『宗教』の本質や真理など意識しなくとも
正月、クリスマス、ハロウィンなどの年中行事を通して時間の進行を体感し、
成人式や結婚式、葬式などの通過儀礼を通して社会での役割を実感し、
神話を通して人生の雛型や世界観を学び、
戒律や道徳観を通して人としての生活ルールを覚えてきました。
身近なところに在りすぎて、求道しようという意識がなければ『宗教』が何であるかなんて考える必要などないのです。
テレビやラジオ、新聞、雑誌といった様々な媒体から絶え間なく垂れ流される情報のなかで『宗教組織による事件』がクローズアップされればされるほど、『宗教団体、組織、社会』に対する憎悪が無条件に蓄積され『宗教』を警戒し、避けるイメージが膨らんでいったとしてもごく自然のような気がします。
アタシがもう一つ注目したいのは、身近にあって意識することもなく受け入れているテレビや新聞、雑誌といった『メディアやマスコミ』は『宗教組織』と同様の功罪を持ってはいないか? ということです。
一見して社会に関心を示し市民的であるように見え、あたかも正義を貫いてるかのようにニュースを伝えるテレビや新聞、雑誌といったメディアやマスコミは、そうした一次情報、二次情報の配信にどのくらいの重責を任っているのかという使命感がアタシには見えません。 そうした話題を好んで選択したり曝されてるアタシもまた、社会に関心を示し市民的でありたいと思い込んでいるだけなのかもしれません。
4月25日朝にJR福知山線の快速電車に乗り、脱線事故に巻き込まれて命を落とした人たち。
その乗車理由からは、貴い「日常」が一瞬にして破壊された様子が浮かびあがります。
あの電車にさえ乗らなければ・・・
それをみてるだけのアタシは・・・偽善者なのだ。
裁き手気取りのマスメディアの悲鳴は、虚しい騒音にしか聞こえない…
戦争や事件や事故や天災は、あたかもフィクション映画や小説を楽しむより遥かに簡単に寛ぎのお茶の間に届けられますが、そこに双方向性のコミュニケーションがないならば、世の多くの人たちが毛嫌う『宗教』や『教会』の閉鎖性や着飾ったシステムを固持し続ける組織の世界となんら変らないようにも思えます。
『ジャーナリズム』とか『宗教』といった言葉にはなんだか共通したところがあって、感覚的なイメージだけが一人歩きして氾濫しています。 が、思い当たるそれ以外のイメージに対する選択肢があまりに少ないということでしょうか。 とはいえ、
貧困から開放され、生まれた時から物質欲に満たされている者も、満たされずに求め続ける者にも際限がないのがアタシ等の世界のようです。
『すべてはアタシが決める!』 『それが自由です!』という感覚や考え方が曖昧な確信として容認されるアタシの国、日本にあっては、殊更、『宗教』とか『信仰』という精神世界は近づき難い『異質な世界』として扱われ過ぎているように思います。
いつも考えてきた事なのに、上手くまとめる事ができません。 アタマ悪いな・・・アタシ。
こうして書き綴りながらもきっとこの文章は何度も手を加えて書き直していくだろうと思っています。
アタシが此処で云いたいのは、存在するメディアや宗教組織や団体を批難したり優劣をつけたりすることではありません。 宗教組織とメディアの共通するイメージを比較しながら、それぞれの『ものの見方』の中にある『宗教』という言葉のイメージから受ける『嫌悪感』を拭い去って、多くの方々が生きる上での糧となり礎となる正しい『信仰』に接する機会が増えて欲しいと願うからです。 そして、それらが、ゆるやかにでも見直される世の中になって欲しいと思ったからなのです。
『宗教』とか『宗教組織』への疑念を晴らすには、自然な言葉で対話しながら世の中での謙虚さ、弱さという感覚をもって、正しい情報を発信する側と受け取る側の良好な信頼関係の再構築が不可欠だと思います。
クリスチャンとして信仰を持つ身のアタシは、敬虔とはとても云いがたい有様ですが、過去から逃避することなく、真っ当に生きる為の選択に耐え抜く大きな支えとして信仰が与えられていると心から信じ、喜び、そして感謝しています。 しかし、
教会は誰にでも開かれているとはいうものの、教会で使われる暗号のような伝統的表現や用語が、一般の世界の感覚では閉鎖的であると認められるならば改められないのだろうかと思ってしまいます。 だって、クリスチャンのアタシでさえ、とっつきにくいと感じていますから。
ここがヘンだよ、クリスチャンというタイトルで
教会の中で、「何かがおかしい、どこか不自然だ」と感じる感性こそが、
もしかして健全なのではないだろうか……。という本の紹介記事を読みました。
「こういう率直な疑問を個人が公にすることが出来るようになったというのはいいことだ思います。 これまでは、疑問に思っていてもそれを表に出す場がなかったのだから。」
(from 教会用語を考える by saichan)
結局、最後の最後は個人の『ものの見方』がすべてであって、「叩けよ、さらば開かれん」であり、
「狭き門より入れ」ということなのでしょうか。
かなり長々と書いてしまいましたが、最後に最近興味をもったブログを書き留めておきます。
インターネットの世界での福音伝道の可能性について共鳴できる内容でしたので、同じような気持ちで自身の信仰をブログ等で語っておられる方々や、キリスト・イエスや聖書には興味はあっても教会へは行きたくないや!と思われる方々が、リアルタイムで信仰を語り合うためのキッカケになればいいな~と思います。
福音伝達のハイテク化に伴い、求道者、サイバースペースに注目する
(Seekers Turn to Cyberspace as Gospel Goes High-Tech)
from AG-NEWS: The A/G News & Information Service, (c) 2005
バーチャルな信仰
from hotwired japan
(追記) :
今までの真っ黒なブログの背景と白抜き文字は、歳を食ったオッチャンには目がチカチカしすぎて
健康に悪そうなので、アッサリやめて、優しい叔父様モードで攻めてみたいと思います。
(って、何を攻めるんじゃ!? オイ!)
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