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カテゴリ:聖書・信仰・祈りの世界( 15 )

主よ、終わりまで

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もうすぐ2007年という一年が終わります。
今、この世に生ある者は皆、
同じ時間の中で生かされてきました。

とても辛い一年だった人もいるでしょう。
シアワセに満たされた人もいるでしょう。
しかし
明日は誰にもわかりません。
だからこそ
確信を持って権威あるものの声を聞き
すべてのことに喜べる者で在りたいと願います。


主よ、終わりまで 仕えまつらん
御側(みそば)離れず おらせ給え
世の戦いは 激しくとも
御旗(みはた)のもとに おらせ給え

浮世の栄え 目を惑わし
誘(いざな)いの声 耳に満ちて
試むる者 内外(うちと)にあり
主よ、我が盾と ならせ給え

静かに清き 御声(みこえ)をもて
名利(めいり)の嵐 静め給え
心に騒ぐ 波は凪(な)ぎて
我が主の御旨(みむね) さやに写さん

主よ、今ここに 誓いを立て
僕(しもべ)となりて 仕えまつる
世にある限り この心を
常に変わらず 持たせ給え



一年間、こんなブログにつきあってくれて本当にありがとうございました!
皆さんの2008年が実り豊かなる一年として限りなく祝福されますように…。
そして、私と私の家族の2008年もまた、祝福に満ちた一年でありますように…。

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主よ、終わりまで
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by tetsuyak04 | 2007-12-30 23:52 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(0)

クリスマスに口ずさむ 「故郷」(ふるさと) の歌

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兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき(※) 
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
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Merry Christmas!

この 「故郷」 (ふるさと) という有名な歌を誰が作ったかご存知ですか?

実はアタシもまったく気にしたことも無かったのですが、
アタシの通うキリスト教会のメンバーの姉上が先週紹介して下さり始めて知りました。
文部省唱歌としてしか紹介されず、誰が作ったのか長く公表されなかったのだそうです。

作曲者、岡野貞一は熱心なクリスチャンでした。
少年時代に通っていた鳥取教会で初めて賛美歌に接しました。
お姉さんの影響もあって14歳の時に洗礼を受けました。
その後、岡山のキリスト教系の中学校に入学し、そこでアメリカ人の宣教師アダムズに
オルガンを習って才能を認められ、彼女のすすめで上京して
東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学します。
卒業後は母校(芸大)で教鞭をとる一方、本郷の教会のオルガン奏者をつとめ、
63歳で亡くなるまで40年以上も、日曜日には休むことなく
教会で礼拝のオルガンを弾き続け、礼拝や聖歌隊の指導等を続けたそうです。
また小学唱歌教科書の編集委員として、唱歌の作曲を数多く手がけました。

彼は実直で寡黙な方だったため、亡くなるまでこの歌が彼の作曲だったことは
家族もまったく知らなかったということです。

明治43年の芸大助教授時代に作曲した、この 「ふるさと」 は、
賛美歌のメロディからヒントを得たのだそうです。

作詞者、高野辰之は明治9年に長野県の寒村、豊田村で生まれた国文学者です。
苦学の上、東京音楽学校で学び、卒業後は教授として講義しました。
「ふるさと」 は、高野の故郷・信州の風景を描いたものだといわれています。

新約聖書の中にも 「ふるさと」 という言葉が出てきます。(ヘブル書 11章16節)

普通 「ふるさと」 とは自分の生まれたところであり、
自分の過ぎ去った過去を思い起こさせるところであり、「振り返るところ」 です。
しかし、アタシ等クリスチャンにとっての 「故郷」 すなわち 「天のふるさと」 は、
前方にあり、未来にあり、アタシ等が 「見上げるところ」 のものです。
そこは、父なる神様がアタシ等を待っていてくださるところです。

この 「ふるさと」 の歌は、地上の 「ふるさと」 を歌った本当に美しい歌です。
クリスマスのこの時に、「天のふるさと」 のことを考えながら、
これを賛美歌として口ずさんでみるのもいいかもしれません。

アタシはこの 「ふるさと」 の3番の歌詞が特に好きで、早速、口ずさんでいます。

志(こころざし)を はたしてb0027290_21231166.gif
いつの日にか 帰らん
山は青き ふるさと
水は清き ふるさと

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追記
岡野と高野が産んだ唱歌は、他にもよく知られた名曲がそろっています。
主な作品: 「ふるさと」 「春が来た」 「春の小川」 「おぼろ月夜」 「もみじ」 「桃太郎」 「日の丸の旗」 等
日本語の美しさがあふれていますね。

作詞者:高野辰之 1876年(明治9)~1947(昭和22)
作曲者:岡野貞一 1878年(明治11)~1941(昭和16)
文部省唱歌(六年) ふるさと

恙(つつが)なしや
無事ですか? お元気ですか?

友垣(ともがき)
友達。交わりを結ぶことを垣を結ぶのにたとえていう。

余談ですが
この曲の歌詞 「うさぎおいし」 は、
「ウサギ美味しい」 で 「ウサギを食べていたんだなぁ~」 とか
「ウサギ(背)負いし」 で 「うさぎをおんぶしてたのかぁ~」
という意味ではありません…。
「うさぎ追いし」 とは 「うさぎを追っかけていた」 の意味ですね。
わかってますよね!?
Merry Christmas !
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by tetsuyak04 | 2007-12-23 21:38 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(6)

Hana-bi

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敬愛するN村兄が天に召された。
日本で執り行われている告別式の時間に合わせ
兄弟姉妹とともに、ここ香港から祈らせていただいた。

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ひとの死を受け入れることは簡単じゃない。
しかし、それは誰にでも訪れることだ。
ひとの肉体は必ず朽ちる。
ただのひとりの例外もなく。

ひとの死は選べない。
そして、ひとの死は孤独なものだ。
だから考えておいたほうがいい。
必ず来るその日のための心の備えを。

神に召された兄弟は、
痛みも苦しみも思い煩いからも解かれ、
そして、永遠の命をいただいた。

それは、自分を殺し捨てることができた
キリスト者の喜びのときだ。

信仰は弱き者のためにある。
信仰は低き者のためにある。 
そうひとは云う。 その通りである。 
だが、多くのひとは大事なところを忘れている…。

信仰は愚かな人間のためにある。
愚かだと気づいた人間のためにある。


Joe Hisaishi の Hana-bi を Piano で聴きながら、
私は兄から、そう教えられたような気がしている…。

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by tetsuyak04 | 2007-04-18 22:00 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(2)

ひとを尊重することの意味

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……イエスは、むかしむかしの昨日、十字架を背負って人の罪のために殺された。

なのにアタシら人間は、ますます傲慢で自己中心的になっている…。
人間ってのは、自分を語るときは 「自慢話」 か 「愚痴」 と決まっているさ~! と云う人がいる。

かかる人間性を持つアタシらが他人を語るときは、さてどうかな?

自慢話の好きなアタシら人間は、「他人の悪口」 や 「噂話」 が好きなようだ。
で、悪口よりも更にタチが悪い 「他人を見下げる」、「馬鹿にする」 ことさえある。

聖書では 「そしる者」(=悪口を云う、罵る) を戒めている。
更に思い上がった罵りの態度を意味する 「嘲笑する」、「嘲笑う」 ことを戒めている。
それは 「不品行な者」、「盗む者」 や 「姦淫する者」 と同列に卑しむべき行為だから…。

「人を尊重すること」、「人格を尊重すること」 をいつまでも知らないでいるということは、
かつて、イエスを嘲りイエスを十字架に張り着けた者たちと
アタシらは未だにな~んにも変わっていことになるんだよな…。

明日はイースター。 で、アタシから聖書のなかの御言葉をひとつプレゼント。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」

受け取ってもらえるかな?

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by tetsuyak04 | 2007-04-07 22:59 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(4)

棕櫚の聖日~Passion Week

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日曜日の今日、キリスト教の世界では棕櫚(シュロ) の聖日と呼び、8日(日曜日) のイースター(復活祭) の前日の土曜日までの1週間を “受難週(Passion Week)” としています。

“Passion” は英語では 「情熱」 という意味を表わしますが、キリストの受難のことでもあります。 
メル・ギブソン監督の映画 「Passion」 も一昨年に公開されましたので御存知の方もいるかと思います。

棕櫚の日曜日(Palm Sunday) にイエス・キリストは力を象徴する馬ではなく、柔和を象徴
するロバに乗ってエルサレムに入りました。 キリストを 「ローマ帝国の支配から解放する王」
と期待していた多くのユダヤ人は歓声を上げてイエスを迎えました。

人々はイエスの通る道に自分の服を敷き、他の人々は棕櫚(シュロ=なつめやし) の枝を切って
敷いたために、“棕櫚の日曜日”と呼ばれています。 しかし期待を裏切られたと思った群集は、
歓喜の叫びをあげたこの日のわずか数日後には、イエスを十字架につけろ!と叫ぶようになるのです。

木曜日が洗足木曜日(Maundy Thursday) と呼ばれている 「最後の晩餐」 の日です。 
弟子の裏切りも予知していながらも、イエスはたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
腰にまとった手ぬぐいでふき始められたのです。 この夜にイエスは捕縛されました。

翌金曜日が、イエスが十字架で殺された “受難日(Good Friday)” です。 
英語では “Good Friday” と呼ばれていますが、それはキリストが死んだことで、キリストを
信じる者の罪が赦されるとされるからです。  しかしキリスト者にとっては、自分の罪の為に
キリストを死に至らしめた悔恨の日とも言えます。

受難日から三日目の日曜日が、イエスが死より甦った日、“復活祭(Easter)” です。

「主の御名によってきたる王に、祝福あれ
天には平和、いと高きところには栄光あれ」


いよいよ都の近くに来て、それが見えたとき、そのために (イエスは) 泣いて言われた。

「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……
しかし、それは今おまえの目に隠されている。 
いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、
おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、
城内の一つの石も他の石の上に残しておかない日が来るであろう。
それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」

(ルカによる福音書19:38~44)

香港では5日の木曜日から9日までがイースター・ホリデーの連休となりますが、
日ごろの疲れを癒しながら、イースターの意味を知る機会にもなればいいですね。

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by tetsuyak04 | 2007-04-01 17:03 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(2)

旧約聖書 『ヨブ記』 ~神の義は、人の知識では計れない~


私は裸で母の胎(たい)から出てきた。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、
主は取られる。
主の御名はほむべきかな。

(ヨブ記1:21)
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Satan Inflicting Boils on Job    British Museum
by Blake, William (b. Nov. 28, 1757, London--d. Aug. 12, 1827, London


旧約聖書の一書で詩篇の前におかれている 『ヨブ記』 をご存知だろうか。

『ヨブ記』 には、人の生き様と神の義が詰まっている。 <More...>
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by tetsuyak04 | 2007-01-17 00:55 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(3)

神の奇跡


ひっそりと 静かに 特別な事じゃなく
平凡な 日常の中で
神の奇跡は 届けられていますb0027290_3442973.jpg

悲しみの中で 喜びを
不安の中で 確信を
絶望の中で 希望をもてるような
神の奇跡が
心の貧しい者たちの中で
心の貧しい者たちの中で
日々 起こされています

気がつかないほど ひっそりと
静かに 神の奇跡は
毎日 届けられています
  

(作詞:関根一夫 作曲:岩渕まこと)
                           ↑香港の怪しくも活気ある屋台通りで買った750円のナイキ! Oh my ・・

歌詞の生まれた背景を関根氏が綴っておられます。 ズッコケのアタシも常日頃、感じていることでした。

「ひっそりと静かに特別なことじゃなく、平凡な日常の中で神様の奇跡や祝福はもたらされるのではないでしょうか」 教会における様々な活動に疲れ果てて、教会不信に陥っていたひとりの女性からそんな言葉が書かれたメールが届きました。

心が痛くなる思いがしました。神様の愛は何ができても、できなくても、その人に届いているのだということを信じて欲しいと思いました。 私は、すぐに、「ひっそりと静かに特別なことじゃなく、平凡な日常の中で神様の奇跡は届けられていますよ」 と返事を書きました。

そして、その後の歌詞がすらすらと出てきました。

フランシスコの「平和の祈り」 を何となく意識しながら書きました。 でも、それはものの数分で出来上がりました。 同時に神様の支配や神様の祝福は心の貧しい人たちのところに、何もできない貧しさを知っている人たちのところに届いているのだと思い出し、それを書き加えました。

それこそが神様の奇跡だと考えました。

様々な活動があることは悪いことではありませんが、いわゆる人数だけを増やすことが、本当に神様の奇跡なのかなと思うことがあります。

私たちの人格の中に、じんわりと育ってくる神様の優しさや神様の愛、人格的な成熟などがもっともっと大事にされなきゃなあと思う中で生まれた歌詞です。  (by 関根一夫)
歌声ぺトラ楽譜集から


つけ加える言葉?・・ありません。
アタシ・・この歌が ダイスキ・・です。
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by tetsuyak04 | 2005-07-18 03:33 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(4)

沈黙のこと

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沈黙のこと

人は神を見い出したいと求めているのに、
神は騒音や落ち着きのないところには、見い出せない。

神は、静けさの友である。
大自然の木や草の生長するのを見なさい。
黙って生長する。
星も月も太陽も、黙って動いている。

スラム街の貧しい人たちに神を与えるのが、わたしたちの使命ではないだろうか。
しかも、死んだ神ではなく、生きて、愛する神である。

無言の魂にまで届く影響をおよぼすためには、静けさが入り用である。
根本的なことは、自分が何を言うかではなく、
神が自分に何を、そしてこの身をとおして何をおっしゃるかである。

宣教者のことばは、内面からわくのでなければ役に立たず、
キリストの光を与えないようなことばは、闇を増すばかりである。

(マザー・テレサ)

夕暮れの木陰にうずくまり、歩むべき途をじっと聴いていたよ・・アタシ

こんなのも撮ったんだけどね・・・more
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by tetsuyak04 | 2005-06-01 03:21 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(6)

病者の祈りと50の鐘の音


アタシ…39の時、
サラリーマン生活に別れを告げた
10年後の50前に、サラリーマンなら定年で受け取る退職金並みの資産は手にしていよう
そうすれば、会社というものから離れても生きてゆく能力は身につけたとして
アタシは、自分の決断に満足できるだろう
そんな風に思っていた

紛れもない情熱から生まれたアタシの居場所で
来る日も来る日も苔みたいに地べたにくっつきながら生きてきた
運が味方して、自分にとってそこは 『特別』 な場所にはなったけれど
失うものも多かったよ
おかげで少しは賢くなったかな

まだまだ、理にかなった生き方にはなっていないが
後悔はない

50の鐘の音を前にして今
確かな信仰との出会いに感謝
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寂しそうにも見えるけど、なんだか吹っ切れた表情の孤高のJazz man
1950年代にスペインで生まれたリヤドロの一品はアタシのタカラモノ
そして今…アタシの心境は




-病者の祈り-

大事をなそうとして力を欲しいと神に求めたのに
慎み深くあるように弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるように病弱を授かった

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞かれた

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せない祈りはすべてかなえられた

わたしはあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ


(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の
壁に書かれた-患者の詩)

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by tetsuyak04 | 2005-05-18 04:18 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(2)

リアルタイムで信仰を

アタシの国ニッポンでは、『宗教』という言葉のイメージは決して良くない。 
むしろ悪い! すんごく悪い! なんでかな? 
『宗教』と聞いた途端に覚える『嫌悪感』と『拒絶』の反応…
こんなイメージは、いったいどうして芽生えたんだろう?
~宗教組織とメディアの功罪~ 今日の戯言…ちょっと長いぞ~!


我輩はクリスチャンである。 
だが、アタシも『宗教』という言葉には、意味も無く『嫌悪感』を抱いてきた。
「宗教って何?!」という素朴な疑問に明確に応える術(すべ)をアタシは知らない。
また、多くの日本人が同様の反応を示す事をアタシ自身、クリスチャンになるよりずっと前から実感している。

『宗教』という言葉を耳にしただけで、無条件に『偽善、まやかし、金儲け!』といったキーワードがオツムに浮かんできて、「アタシは嫌~~い!」「へ~~、アンタそんなもんに関わってんの?」といった会話が流れたりする。

また、多くのフリーウェブ素材の提供サイトでその使用が無条件に拒絶されているのは公序良俗に反するアダルトサイトと宗教関連と記載されてるものが多いよね。
知らぬ間にYESかNOかの二者択一の選択肢しかない根強い『宗教』に対する『嫌悪感』や『警戒感』が、日本ではアダルトサイトと同列なのには、なんだか無性に哀しさを覚えます。

イメージだけですべてを見透かしたように、警戒し、侮蔑し、排斥し、断言したりする『ものの見方』や『感覚』を多くの日本人が身につけているのは何故なんだろう? 
そしてそれはいったいどこから芽生えてきたんだろう?

アタシはそれがとても知りたくて、ずっと考えてきました。 

アタシなりのイメージですが、『宗教』と『信仰』というのではまた受け取り方がちょっと違うと思っています。

『信仰』には、個人の信念や気持ちの問題として『個人』に重点が置かれているのに対し、
『宗教』には、個人の信念や信仰と結びついた『団体、組織あるいは社会』などの存在が容易にイメージされるのです。

そう考えてみると、身近な『祈り、希望、願望』といった個人的な内なる『信仰』には寛容でも、『組織や団体あるいは社会』が『宗教』というカテゴリーを隠れ蓑にして権力を隠匿し、政治や金や様々な欲望に絡んで問題を起こせば、『宗教』という言葉のイメージが汚れて見えてくるのも頷けます。

世界中で起こる『宗教組織』がらみの紛争やテロ事件等が深刻度を増して度重なれば、ましてや日本国内での身近な凶悪事件や破廉恥事件ならば尚更の事、人々が『宗教』に対してあからさまな『嫌悪感』を覚えるのはむしろ正常な感覚と思えます。 

アタシ等、日本人は生まれたときから『宗教』の本質や真理など意識しなくとも
正月、クリスマス、ハロウィンなどの年中行事を通して時間の進行を体感し、
成人式や結婚式、葬式などの通過儀礼を通して社会での役割を実感し、
神話を通して人生の雛型や世界観を学び、
戒律や道徳観を通して人としての生活ルールを覚えてきました。 

身近なところに在りすぎて、求道しようという意識がなければ『宗教』が何であるかなんて考える必要などないのです。

テレビやラジオ、新聞、雑誌といった様々な媒体から絶え間なく垂れ流される情報のなかで『宗教組織による事件』がクローズアップされればされるほど、『宗教団体、組織、社会』に対する憎悪が無条件に蓄積され『宗教』を警戒し、避けるイメージが膨らんでいったとしてもごく自然のような気がします。

アタシがもう一つ注目したいのは、身近にあって意識することもなく受け入れているテレビや新聞、雑誌といった『メディアやマスコミ』は『宗教組織』と同様の功罪を持ってはいないか? ということです。

一見して社会に関心を示し市民的であるように見え、あたかも正義を貫いてるかのようにニュースを伝えるテレビや新聞、雑誌といったメディアやマスコミは、そうした一次情報、二次情報の配信にどのくらいの重責を任っているのかという使命感がアタシには見えません。 そうした話題を好んで選択したり曝されてるアタシもまた、社会に関心を示し市民的でありたいと思い込んでいるだけなのかもしれません。 

4月25日朝にJR福知山線の快速電車に乗り、脱線事故に巻き込まれて命を落とした人たち。
その乗車理由からは、貴い「日常」が一瞬にして破壊された様子が浮かびあがります。
あの電車にさえ乗らなければ・・・
それをみてるだけのアタシは・・・偽善者なのだ。

裁き手気取りのマスメディアの悲鳴は、虚しい騒音にしか聞こえない…

戦争や事件や事故や天災は、あたかもフィクション映画や小説を楽しむより遥かに簡単に寛ぎのお茶の間に届けられますが、そこに双方向性のコミュニケーションがないならば、世の多くの人たちが毛嫌う『宗教』や『教会』の閉鎖性や着飾ったシステムを固持し続ける組織の世界となんら変らないようにも思えます。 

『ジャーナリズム』とか『宗教』といった言葉にはなんだか共通したところがあって、感覚的なイメージだけが一人歩きして氾濫しています。 が、思い当たるそれ以外のイメージに対する選択肢があまりに少ないということでしょうか。 とはいえ、

貧困から開放され、生まれた時から物質欲に満たされている者も、満たされずに求め続ける者にも際限がないのがアタシ等の世界のようです。

『すべてはアタシが決める!』 『それが自由です!』という感覚や考え方が曖昧な確信として容認されるアタシの国、日本にあっては、殊更、『宗教』とか『信仰』という精神世界は近づき難い『異質な世界』として扱われ過ぎているように思います。

いつも考えてきた事なのに、上手くまとめる事ができません。 アタマ悪いな・・・アタシ。
こうして書き綴りながらもきっとこの文章は何度も手を加えて書き直していくだろうと思っています。

アタシが此処で云いたいのは、存在するメディアや宗教組織や団体を批難したり優劣をつけたりすることではありません。 宗教組織とメディアの共通するイメージを比較しながら、それぞれの『ものの見方』の中にある『宗教』という言葉のイメージから受ける『嫌悪感』を拭い去って、多くの方々が生きる上での糧となり礎となる正しい『信仰』に接する機会が増えて欲しいと願うからです。 そして、それらが、ゆるやかにでも見直される世の中になって欲しいと思ったからなのです。

『宗教』とか『宗教組織』への疑念を晴らすには、自然な言葉で対話しながら世の中での謙虚さ、弱さという感覚をもって、正しい情報を発信する側と受け取る側の良好な信頼関係の再構築が不可欠だと思います。 

クリスチャンとして信仰を持つ身のアタシは、敬虔とはとても云いがたい有様ですが、過去から逃避することなく、真っ当に生きる為の選択に耐え抜く大きな支えとして信仰が与えられていると心から信じ、喜び、そして感謝しています。 しかし、

教会は誰にでも開かれているとはいうものの、教会で使われる暗号のような伝統的表現や用語が、一般の世界の感覚では閉鎖的であると認められるならば改められないのだろうかと思ってしまいます。 だって、クリスチャンのアタシでさえ、とっつきにくいと感じていますから。

ここがヘンだよ、クリスチャンというタイトルで
教会の中で、「何かがおかしい、どこか不自然だ」と感じる感性こそが、
もしかして健全なのではないだろうか……。という本の紹介記事を読みました。

「こういう率直な疑問を個人が公にすることが出来るようになったというのはいいことだ思います。 これまでは、疑問に思っていてもそれを表に出す場がなかったのだから。」 
(from 教会用語を考える by saichan) 

結局、最後の最後は個人の『ものの見方』がすべてであって、「叩けよ、さらば開かれん」であり、
「狭き門より入れ」ということなのでしょうか。

かなり長々と書いてしまいましたが、最後に最近興味をもったブログを書き留めておきます。

インターネットの世界での福音伝道の可能性について共鳴できる内容でしたので、同じような気持ちで自身の信仰をブログ等で語っておられる方々や、キリスト・イエスや聖書には興味はあっても教会へは行きたくないや!と思われる方々が、リアルタイムで信仰を語り合うためのキッカケになればいいな~と思います。


福音伝達のハイテク化に伴い、求道者、サイバースペースに注目する
(Seekers Turn to Cyberspace as Gospel Goes High-Tech)
from AG-NEWS: The A/G News & Information Service, (c) 2005


バーチャルな信仰
from hotwired japan


(追記) : 
今までの真っ黒なブログの背景と白抜き文字は、歳を食ったオッチャンには目がチカチカしすぎて
健康に悪そうなので、アッサリやめて、優しい叔父様モードで攻めてみたいと思います。 
(って、何を攻めるんじゃ!? オイ!)


Trackback to : 神を感じる from 縄文の風、たましいのこえ

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by tetsuyak04 | 2005-05-14 05:07 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(11)