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含羞を持つということ

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今日、長いこと懸念していた問題にひとつケジメがついた
そのことを独りで考えながら、久しぶりの店で酒を飲んだ

自分をよ~く知る板さんが
クリスチャンのアタシに向かって
仏の顔…と、つぶやきやがった

ばかやろう~! と云ってアタシは笑った

信頼していた人間がズルを通すのを知っていながら
黙っているのはつらいことだった…

すこしばかり我慢がすぎたけれど
羞恥のかけらを見せてくれただけで
アタシは救われた…

人生の終わりに向かって加速度が増してきて
消しがたい悔恨の日々とともに
哀しき美談のひとつやふたつ抱えてたっていい歳だもんな

人間の品性は、社会的地位や経済力とは無縁なもの…

永遠の少年みたいな眼差しで
最後の最後まで人を信じる
最後の最後まで人を裏切らない

そういう人にアタシはなりたい…。


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by tetsuyak04 | 2007-06-08 11:55 | 大人の童話 | Comments(18)
Commented by choco paradise at 2007-06-09 01:33 x
『信じない!』ってのは簡単でそれだけで結末を得るんだけれど、『信じる』ってのは永遠で人を想う気持ちがないと出来ないんだよね。。。
自分自身すら信じれない時もある私には、疑う方を選んで楽してきたキガスル。
テツヤさんは、お地蔵様みたいな人!だと思う。
Commented by tetsuyak04 at 2007-06-09 02:46
「信じる!」 とか 「信じない!」 というよりも,
「決して疑わない」 という気持ちにまでなれたらスゴイことだなと思いますね。
アタシもそのうち赤い布きれを首に巻いてご飯を戴くようになるんでしょうかね…。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:01 x

アタクシは、『含羞』という高級な感情は、封建制度を体験しない
劉邦的世界には存在しないのではないか、という疑義を兼ねてから
抱いているわけですが...........。(ズバリ、支那のことネ)

今度、ローカルに聞いて教えて貰えないでしょうか?
広東語や普通語で『含羞』とは、どう云うのか? どう表記するのか?と。

『最後の最後まで人を信じる、人を裏切らない』

これは、閉ざされた邦人世界の中では達成可能な行為かも
しれないけれど、それが開かれた対支那世界でどれだけの
可能性があるのか........は、余計な御世話というものですネ。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:03 x
アタクシは、余計なこととは思いますが、信じる/信じないは
ありふれた言い方ながら、ケースバイケース、それで充分であり、
それが最も蓋然性がある、と思っていますね。

信じることが出来ない人間もいる。極く、アタリマエの事ですね。
時間と空間がこれだけ広大な、あらゆる異なる環境、政治体制が
ある地球上で、大括弧でそれが個であろうが、人間という存在を
括って『信じる』という概念に嵌めるのは.........どうでしょうか。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:06 x
ダフールや、チベットでは、現在進行形で人間が片端から
ブチ殺されていますが、殺される立場になった場合、『信じる』
を前面に出すのか、或は、『信じない』を前面に出すのか、
どちらの選択がより高い生存の可能性を齎すのか、は.........、
究極の選択のワン・ノブ・イグザンプルでしょうね。
それを宗教的信条で選択した場合は、その選択と結果に因果を
求めることは不条理なことでしょうね。
宗教というものは、元々理詰ではなく、霊的な直感ですから。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:10 x
ですから、『信じる』という概念、行動をより力強いものとして
自分の胸に抱くのであれば、それは『人を信じる/人を疑わない』
という大きな枷を自分に嵌めてしまうのではなく、

『自分は信じる力を持っている』

すなわち、
RIGHT SITUATION,
RIGHT PERSON
RIGHT PLACE
において、自分は信用するに足る人や対象を信じる力を持っている、
と認識したほうが、自分がもっと楽に、幸せになるような感覚を
覚えませんか?
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:20 x
『人を信じる/人を疑わない』
このターム、この場合は願望というよりも謂うならば強制的な希求ですね。
そうであらねばならない、という強い強制の枠が背後にあるわけですが、
実は何故この概念が強制的な意味合いを帯びてくるかと謂えば、
これは自己への希求というよりは、他者がそうであるべきだという
願望/希求が姿を変えたものだ、とアタクシは思っていますね。
言葉という道具でそれを叫ばざるを得ないその行為自体が、
それを示していると思うわけです。自己への単純な希求であれば
言葉にして外界に発する必要は基本的に不要ですからね。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:23 x
例えば、アタクシのように
『信じることもあれば、信じないこともある』という価値観の人間が
『オレは信じることもあれば、信じないこともある』と外世界に向かって
言葉で叫ぶでしょうか? その必要はありませんね。
だって、その価値観を相手に希求や強制などはしていませんから。
その価値観は既にお互いに共有済みで確認済みだ、と認識しているから
必要無いわけですネ。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:35 x
また、人間の信用度は、『社会の地位や経済力とは無縁なもの』か?
これは、アタクシの捉え方は、『両者には明白な相関関係が認められる』
というものですが、この認識は極めて蓋然性があるでしょうね。
例えば、極東の一有色人種の若い司祭に対する信用と、
ローマ教皇に対する信用が等価だ、と果たして(外世界はともかくとして)
ローマカソリックの内部世界に於いても認識されるでしょうか?
そのようなことはまず考えられませんね。
人間世界に凡そヒエラルキーの階層が存在する限りにおいて、
信用の度合いは階層社会の位置変化によりリニアに比例する、
これは誰にもで容易に納得できる経験則であり、人間社会における
真理ですね。ニューギニアの土人だってこの例に漏れないでしょう。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:45 x
然し、人間の『品性』が『社会の地位や経済力とは無縁なもの』か?
この問題はもう少し難しいですね。これには大雑把な相関関係は
認められる場合も少なくないが、分布は非常にランダムですね。
これがドンピシャで当て嵌まる最悪の例は『キムの豚野郎』でしょう。
これが当て嵌まらない好適な例はなんと申しても、我が国の国体、
昭和の御代に崩御された裕仁先帝陛下でしょうね。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:53 x
然し乍ら、畏れ多くも先帝陛下におかれても、独白録を拝読すれば
必ずしも臣下の全てを御信用されていた、とはけして云えないことが
わかります。松岡なんかはその代表ですね。
つまりは、『信用』は『バランス』の問題ですね。
CREDIT=信用とはよく云ったもので、信用するという場合、
どれだけの金を融資してくれか、これはシビアなバロメータですね。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 04:54 x
信用に関して、ズバリ云えばですね………。

『私は貴方を信用している』

これは、云うには易しいのです。本当に云うに難しく困難なことは

『私は貴方をここまでは信用している』
(ここまでしか信用していいない)
Your credit limit is up to here.

と、自分が果たして単刀直入に云える勇気があるかどうか、ですね。

Commented by いちのへ at 2007-06-09 05:02 x
『最後の最後まで人を信じる』というスタイルを維持する事、
相手の信用上限値をズバリ告げる勇気を持ち得る事。
どちらが困難なことかは、人に依るでしょうが、
後者も相当困難なタスクだとアタクシは思っていますね。
但し、後者は自己の生存を確保する為のリスク回避手法としては
前者よりも有用なのではないか、とは思っていますが………。
何故ならば、信じることは必ず報われる、という方程式は
人類開闢以来、未だ成立していない方程式で、あらゆる宗教さえも
この方程式を確固たるものにし得てはいない、と思われますからね。
人を信じる、ということは、或る側面で宗教と同じ霊的直感なのかも
しれませんね。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 05:09 x

上記は全て言葉で省察してみる、というゲームですからネ。

Commented by はちみつ at 2007-06-09 11:01 x
 「誰かが自分の事を信用してくれてる」私にはそれがある意味生きる糧になっております。私もtetsuyak04さんの言うそういう人になりたいな~。
Commented by いちのへ at 2007-06-09 22:20 x

はちみつさんのお考えはよく解りますね。
同じことを違う表現でアダム・スミスは云っています。
先人の箴言を紐解いてみましょう。曰く、

『人間の最大の喜び、願い、満足というものは、
 他から認知されることである。
 自身の卓越性について他者から賛同を得られることである、
 この欲求に比べれば金銭慾などは取るに多らないことである』

と述べていますね。
自己存在と自我を認められることが、人間にどれだけ圧倒的な
インセンティブを齎すか……..という事ですね。
Commented by tetsuyak04 at 2007-06-12 17:05
週末のひとときを長文のコメントで楽しませてもらいました。
言葉のひとつひとつには本来の意味とともに言葉に込めた願望や希求が
確かに存在します。 言葉を向ける相手のことを考えた上で発する場合と
そうでない場合、言葉は鉄砲の弾と同じように相手の意思を促す道具にも
なるし、単たる殺人のための凶器にもなります。
発した言葉の意味を言葉で省察するゲームは暇じゃないとできないものですが
普段曖昧に発する言葉の重さを時に考えさせられる知的なゲームとして
扱うきっかけを与えてくれるいちのへさんには感謝しています。
『品性』と『信用度』を兼ね備えた人間としてともに成長したいものです。
Commented by tetsuyak04 at 2007-06-12 17:06
はちみつさん、こんにちは。
人が自分を信頼してくれることに喜びを感じる私たちですから
自分たちに関わる人たちには同じような気持ちでいたいものですよね。
いろんな人がいてケースバイケースですが、根っこは性善説でいたいと
思います。
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