「ほっ」と。キャンペーン
<< 山谷ブルース と 丹下健三 人生の分かれ道 >>

祈りによる解決?! ~Passion Week~ を機に考えてみる

祈りによる解決!? (from 教会用語を考える)

クリスマスとならんでデパート商戦が活発に催されるイースターが近づいてきました。
香港では今週の25日の金曜日から28日の月曜日までがイースター4連休です。

キリスト教では移動祝日の20日の棕櫚(シュロ)の聖日(日曜日)から27日のイースター
(復活祭)の前日の土曜日までの1週間を “受難週(Passion Week)” としています。


折角ですからこの “Passion Week“ について簡単に整理しながら、祈りについての自分の考えを書いてみようと思います。

“Passion” は英語では「情熱」という意味を表わしますが、キリストの受難のことでもあります。 昨年、メル・ギブソンが監督した映画 「Passion」 も公開されましたので御存知の方もおいでかと思います。

棕櫚の日曜日(Palm Sunday)にイエス・キリストは力を象徴する馬ではなく、柔和を象徴
するロバに乗ってエルサレムに入りました。 キリストを「ローマ帝国の支配から解放する王」
と期待していた多くのユダヤ人は歓声を上げてイエスを迎えました。

人々はイエスの通る道に自分の服を敷き、他の人々は棕櫚(シュロ=なつめやし)の枝を切って敷いたために、“棕櫚の日曜日”と呼ばれています。 しかし期待を裏切られたと思った群集は、歓喜の叫びをあげたこの日のわずか数日後には、イエスを十字架につけろ!と叫ぶようになるのです。

木曜日が洗足木曜日(Maundy Thursday) と呼ばれている 「最後の晩餐」 の日です。 
弟子の裏切りも予知していながらもイエスはたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
腰にまとった手ぬぐいでふき始められたのです。 この夜にイエスは捕縛されました。

翌金曜日が、イエスが十字架で殺された “受難日(Good Friday)” です。 
英語では “Good Friday” と呼ばれていますが、それはキリストが死んだことで、キリストを
信じる者の罪が赦されるとされるからです。  しかしキリスト者にとっては、自分の罪の為に
キリストを死に至らしめた悔恨の日とも言えます。

受難日から三日目の日曜日が、イエスが死より甦った日、“復活祭(Easter)” となります。


私は3年前の2002年5月19日、ペンテコステ(聖霊降臨の日)に母教会となる香港JCF
(香港日本基督教会)に於いて息子と一緒に洗礼を受けてクリスチャンになりました。

自分は打たれ強い方だとは思いますが、それでも人並みの苦労はありますから心を暗くする
思いや出来事に当惑して悩むことも多々あります。

どんな人にとっても、生きるということはたやすい事ではありません。 

それは過去と未来が絶えず私たちを悩ませるからです。 咎めや悔恨が過去からついてくるし、思い煩いが未来からやってきます。 今、私が在る状態がまったく思いもよらないことだったとしても、自分の人生の支配権はいつも自分が持っているのだと思うものです。 

自分にとって必要なものは何か? 次に何をしたいのか? といったことをことごとく自分で決
めたいものなのです。 その一方で、困難や苦難に遭遇した時、あるいは欲望や願望を叶えたいと思った時に人は、見えない何かに願ったり祈ったりしてすがりたくなるようです。

私も紛れもなくそんな人間の一人ですから。

祈りによって抱える問題は解決できるのか? ということについては正直なところ私にはわかりません。 

神様を賛美します!と唱えながら、実は自分が願っている結果だけを密かに望みながら祈っている間は、ただ自分を欺いているだけのような気がします。 そのことで自分を変えたり状況を好転させるようなことはきっと何も起こらないと思います。

哀れっぽい泣き言を言いながらクリスチャンという仮面をかぶった偽りの謙遜の祈りには
決して平安は訪れないでしょう。 私も無意識のうちにそんな祈りをしていましたから。

神様がなぜ、またどうしてこんな禍を私に、あるいは世の中に起こされたのかを知ろうとすればするほど人は知性によって困難に陥ってしまいます。 その知性を持って事態を受け入れることができるかどうかだけが“信仰”の始まりであり、行き着くところであるような気がします。
   
「ニーバーの祈り」 には、そんな気持ちが込められているように私は思います。


主よ、
変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を私に与えてください。


God
grant me the serenity
to accept the things I cannot change,
the courage to change the things I can;
and the wisdom to know the difference.

-Niebuhr, Reinhold -

b0027290_2315090.jpg
にほんブログ村 オヤジ日記ブログへ

[PR]
by tetsuyak04 | 2005-03-22 20:21 | 聖書・信仰・祈りの世界 | Comments(4)
Commented by forgive_yurusi at 2005-03-25 22:42
はじめまして。『賛美』『イエス』で検索し、訪問しています。この受難週に祈りについて考えていましたが、こちらで今一度気付きをいただき、とても落ち着いた気持ちになりました。ライフログにも大変共感を覚え、リンクをさせていただきたいのですが、お許しいただけますか。私のブログでは信仰以外の重い話もありますので、お気が進まなければ、どうぞ、遠慮なく言っていただいてかまいません。よろしくお願いします。
Commented by tetsuyak04 at 2005-03-26 02:45
forgive_yurusi さん、はじめまして。 コメントありがとうございます。
ブログを通して人それぞれの考え方や思いを知り、日々の出来事の中で経験する葛藤や誘惑、弱さや迷いを躊躇わずに吐き出すことで、自分の本当の居場所が見出せればいいな~と思っています。
こちらもリンクさせていただきました。 これからもよろしくお願いします。
Commented by forgive_yurusi at 2005-03-27 00:39
リンク快諾、感謝します。とても嬉しく思います。こうして、ブログを通して、特に、信仰の話をさせていただけるのは、まだ、信仰数年の私にとって、学ぶところがとても大きいことばかりです。これから、いろいろなお話をさせていただけることを楽しみにしています。

実は、夫が合気道を習っていました。今は、仕事の都合で、休んでいるのですが、復帰するチャンスを狙っています。そこのところもtetsuyak04さんのブログに惹かれた一因です。改めて、よろしくお願いします^^
Commented by saichan_neko at 2005-04-10 03:05
はじめまして!「教会用語を考える」のさいちゃんです。
先日は拙ブログへお越しいただきありがとうございました。コメントも頂いていたのに、すっかり沈没しておりまして、レスが遅くなり大変申しわけありませんでした。ぼちぼち復帰して頑張りますので、よろしくお願い致します。
こんな立派な記事の中に引用して頂いて、光栄です。リンクもありがとうございます。

>哀れっぽい泣き言を言いながらクリスチャンという仮面をかぶった偽りの
>謙遜の祈りには決して平安は訪れないでしょう。 

厳しい指摘ですね。本当にそうだと思います。ただ、どうしてもそれをやってしまうのが、多分人間なのでしょうけれども。

ここ以外にもいろいろ興味深い記事があって、あれこれ読ませて頂いています。これからも寄らせていただきますので、どうぞよろしくお願い致します。
<< 山谷ブルース と 丹下健三 人生の分かれ道 >>